寝ることも仕事のうち

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これは比喩ですが、白と黒と言った色合いで進んでいる物事を、グレーや別の色に変更しなければならない時があります。あるいは、気づけば色が変わっている時があります。

この種の変更を前提に前に進むために、私自身の納得感を集中的に醸成しようとするのが、私の癖です。するとたまに、思考の全体性に閉じ込められ、窒息しそうな気分になります。

しかし、およそどんなことでも、一晩寝たら意外に受け入れられるものです。「寝ることも仕事のうち」なんて言われることがありますが、私の場合は本当にそうだなと思う次第です。

不在

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組織の中には、注意深く隠されているがゆえに、隠されていた事実自体がいつのまにか忘れ去られ、そこには存在しないものとして扱われるようになってしまったものがあります。

弊社の調査においては、そのようなものを白日のもとにさらすことがあります。それらを見た際、しばしばクライアントは驚きの表情を示しますが、本来はクライアントの組織の中にあり続けたものです。

不在と認識されたものがいかにあり続けたかという歴史と、いかに隠されてきたかというメカニズムを掘下げて説明することを、弊社では心がけています。

ここには、せっかく調査で日の目を見たものが再び不在の位置に追いやられないようにする目的がありますが、中には、不在のままにしておいた方が良いものもあり、悩ましいところです。

書くこと、話すこと、写真

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新しい年になりました。良いタイミングだと思い、プロフィール写真を撮り直しました。前回の写真は講演中の様子をカラーで収めていました。対して今回のものは何も話さずに座っています。

プロフィール写真を変更するのは、およそ1年ぶりでしょうか。その背景には、今年は「書くこと」により注力したいという気持ちがあります。そのため、話していない写真を選んだのでした。

実際、現在いくつかの書きかけ原稿が手元にあります。それらのプロフィール写真に関しても今回のものを活用しようと考えています。今年は原稿の中でもお会いできる機会を増やせれば。

明けまして文体の話

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明けましたね。今年もよろしくお願いします。さてこの頃、「文体」に関心が出てきています。同じ内容でも文体が違えば言葉の響き方が異なり、読後の印象にも影響します。

例えば私で言えば、(乱暴な分類ではありますが)リスクを回避しながら慎重に書く文体と、大胆に一筆書きのように書く文体があります。

先日ある雑誌のコラムを書いたのですが、その際は前者の文体でした。一方でブログは後者の文体で書いています。

書きながら使い分けの秩序が少しずつ構築され始めて、やがて文体が定まります。文体が定まると以降は随分書きやすくなるものです。

直感

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なんとなくまずい気がする。そのような直感が働くことがたまにあります。ところが、直感を他者にどう伝えれば良いか、少々悩ましく思います。

というのも、ビジネス・コミュニケーションでは自然と理由が求められます。主張に理由が付帯すれば、主張者の説明責任を果たすことになります。このことは一面では重要かもしれません。

しかし、そのような世界観のもとでは、直感を伝えることが憚られます。直感を伝えれば、その感覚を契機に、何がまずいのかを共同で探ることもできるのですが。

論理的なやりとりも大事ですが、理由なき感覚を言い合える関係もまた、リアルタイムで進展する事業活動においては大事なのでしょう。

フレイレに思いを馳せる

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少し乱暴な言い方ですが、企業には支配的論理があります。支配的論理は、制度、慣行、文化など社内の多岐にわたって浸透しています。そうした浸透が全体として、特定の論理を「支配的」にしていくとも言えます。

支配的論理に「反する」取り組みは、一見、強烈に困難に思えます。その種の取り組みが社内で成功する理由はあまり浮かばないものの、失敗する理由は際限なくイメージできる状態です。

その種の取り組みを見たとき、私はパウロフレイレに思いを馳せます。フレイレは貧困の最中にある人々に文字を教えることで、自分たちを取り巻く状況を分析し、どうすれば良いかを検討する、実践を組成しました。

フレイレが何よりすごいと思うのは、そうした実践の中心に据える方法を、一つの「正義」として、自らの言葉で紡ぎ上げた点です(例:『被抑圧者の教育学』)。

もちろん、この「正義」の内容は吟味の対象になるべきでしょう。しかし、「正義」が存在することが支配的論理に抗う人々にとって、どれほど大きな基盤になっただろうかと思うのです。

フィールドの創造

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大学院生時代からの研究仲間の伊藤智明さんが、日本ベンチャー学会で学会賞を受賞しました。その知らせを聞き、早速、昨日、伊藤さんと祝杯をあげました。

「企業家の失敗」を「探索」したのが伊藤さんの受賞論文です。ここにおける「探索」は、一般性を頂点とした際の「不足」として捉えるべきではなく、ベンチャー研究において「新たな一歩」となるものです。

詳しくは受賞論文を見ていただきたいのですが、私が何より驚愕したのは、「失敗」をテーマに取り上げたことより、「失敗」に自然に出会えるフィールドにいたことです。

事前に計画して失敗を調べに行ったのではなく、事後的に「失敗」なる現象が浮かび上がってきた。なんという覚悟と忍耐・・・(そしてきっと楽しかったことでしょう)。

恐らく、このことが可能になったのは、伊藤さんが「対話」というフィールドを新しく自身の手で作ったからではないでしょうか。フィールドに入るのではなく、作る。非常に面白い、研究への向き合い方です。