安心感、文法、位置取り

f:id:york_date:20161205113945j:plain

(乱暴な表現ですが)一般企業と比較すると、ビジネスリサーチラボは、「議論」が量・質ともに求められる会社です。ここでいう議論は、会議とイコールではありません。

公式的にも非公式的にも、同期的にも非同期的にも、口頭でも文字でも、他者と議論を行いながら、思考を深めながら、良質なアウトプットを生み出そうとしています。

これだけ議論を交わすのですから、議論自体が(私を含む)当人たちにとって「楽しい」と感じられるものでありたいわけです。では、何があれば、議論が楽しくなるのでしょうか。

勿論、私も完全な答えは持ち合わせていません。しかし、経験上、「安心感」「文法」「位置取り」の3点は、意識しておいて損はないかなと思います。

思考の露出が自分を脅かさない「安心感」があれば、発言しやすい場を作り出せます。やりとりの構成・方法・規則等の「文法」が共有されていれば、議論の速度と効率性を保てます。発言の立ち位置である「位置取り」を自覚していれば、意見を相対化しつつ深められるのです。

形式に注目する

f:id:york_date:20161202124607j:plain

ビジネスリサーチラボでは、企業から依頼を受け、量的調査だけではなく、質的調査を実施することがあり、そのための手法として「インタビュー」を選択することがあります。

インタビューのデータを分析する際、私たちはしばしば「内容」に注意を払いがちです。確かに、「何を話したか」という点は相応の重要性を持つに違いありません。

しかしながら、「形式」もまた大事かもしれません。形式とは「どのように話すか」を意味しています。形式の中には、語彙そのもの、文法、話の展開などに加え、非言語的な要素も含まれます。

昔、ある企業のインタビューに同席していた時のこと。各インタビュー対象者は、異なる「内容」を話しながらも、その「形式」が類似していたのです。気になってインタビュー後に職場を観察させてもらったところ、やはり類似する形式で話す人々の姿が、そこにありました。

当時は、同じ形式で話をすることによって、コミュニケーションコストが最小化できる。形式の共通性が逆に話題の多様化を促している。同じ文化を体現した仲間としての意識を醸成できる。こんな解釈をしたのですが、実際のところどうなのでしょう。

心地よい混乱

f:id:york_date:20161130152737j:plain

芥川賞受賞作『コンビニ人間』を読みました。小説家の想像力と筆力には心から脱帽します。内容は実際に読んだほうが良いと思うので、やや抽象度の高い感想(感覚?体験?)のみ。

誰しも、特定の現象・人物に対して「これは変だ」と思う感覚を持っているのではないでしょうか。「価値観」や「規範」とも呼ばれる、その感覚には「境界」があるのかなと、私は考えています。「ここまで来ると違和感を覚える」という意味での境界です。

私の場合、そうした境界は、小説を読む中で、特定の登場人物に知らず知らず加担するという形で表出することが多い。ところが、『コンビニ人間』が興味深いのは、境界が少しずつズレていく感覚を覚えるのです。

何に・誰に違和感を覚えるのか。その境界が読み進めるうちにズレていき、心地よい混乱が残りました。

そのものと向き合わない

f:id:york_date:20161129203115j:plain

私は音楽が好きです。比較的多くの音楽を聴いてきた方だと思います。夜を徹して音楽を作るほど、のめり込んでいた時期もありました。

ところがここ数年、新しい音楽をフォローするエネルギーを持てずにいます。90年代の音楽をリピートしている自分がいるのです。

それどころか、たまに新しい音楽に出会った時、「これはあの音楽と似ている」とか「この人の影響を受けている」とか即座に考えてしまいます。酷い場合は、悦に入って、そのことを人に伝えてしまいます。

半ば反射的に、音楽そのものと向き合おうとしないわけです。これは一体どんな現象なのかと不思議です。いずれにせよ、この現象を意識的に統制できずにいるため、せめて人に伝えるのだけは控えようと思うのでした。

偶然の再訪

f:id:york_date:20161127140548j:plain

ビジネスリサーチラボでは、現実に関する理解を深めるため、日常的に研究を調べる機会があります。研究を調べる際には、しばしば「検索」という手段を用います。

個人的に興味深いのは、一見関係ない議論をフォローしていたり、異なる専門性を持つ人と雑談したり、知的な空間をさまよっていると、ある時ふと、そこで交わされた「言葉」を思い出し、それが検索を豊かにする点です。

そうしたことは言ってみれば「偶然の想起」でしょう。しかし、一度その言葉を訪れているからこそ「再訪」が起きるのですから、ちょっとしたロマンを感じます。

先日も、弊社内の議論の様子を見ていて、「コンタクトゾーン」という言葉が急に頭をよぎりました。どこで聞いたか忘れてしまいましたが、慌てて検索しました。結果、目の前の状況を別の角度から捉えられたのでした。

遠さ、楽しさ

f:id:york_date:20161125164524j:plain

遠いところ、それも、いつたどり着けるか予想もつかない遠さ。目的地が具体的に描けているわけでもない。そんな場所に向けて歩いていく時に何が大事だろうかと、よく考えます。

あ、ビジネスリサーチラボの話です。弊社は「臨床」というコンセプトを掲げて事業を行なっています。このコンセプトはいわば弊社の目的地です。一方で、弊社は臨床の目的と方法を一意に特定できてはいません。

その意味での特定は、途方もない実践の堆積の末、見えてくるものでしょう。弊社のように、ぼんやりとした目的地に向けて歩くのは実に難しい。とはいえ、前に進まないと、目的地に近づきません。

そんな時に、私は「楽しさ」が大事だとつくづく思います。ある人が歩き続けるためにも、他の歩きたい人に参加してもらうためにも。私は経営者として、社員が楽しめる環境を率先して作っていければと思っています。

雪と日常の記憶

f:id:york_date:20161125164502j:plain

今日の午前、首都圏は木々が白くなるほど雪が降っていました。にもかかわらず、私が出社する時間は幸いにも電車のダイヤ乱れもひどくなく、安堵しました。

雪が降るたびに思うのですが、昔からこんなに毎年降雪があったでしょうか。小・中学生の頃を思い返すと、積雪の記憶は数度のみです。これは、インパクトのある非日常の出来事を中心に、記憶が残っているせいでしょうか。

確かに仕事においても、例えば、そんなに昔ではない創業当初さえ、非日常の出来事は詳細に語れますが、日常の出来事は思い出せないわけです。

ただ例外的に、社員の働きぶりを見ていて、ふっと日常に関する記憶が蘇る時があります。他者の日常を媒介して、自身の日常を振り返られるのは嬉しいことです。