直感
なんとなくまずい気がする。そのような直感が働くことがたまにあります。ところが、直感を他者にどう伝えれば良いか、少々悩ましく思います。
というのも、ビジネス・コミュニケーションでは自然と理由が求められます。主張に理由が付帯すれば、主張者の説明責任を果たすことになります。このことは一面では重要かもしれません。
しかし、そのような世界観のもとでは、直感を伝えることが憚られます。直感を伝えれば、その感覚を契機に、何がまずいのかを共同で探ることもできるのですが。
論理的なやりとりも大事ですが、理由なき感覚を言い合える関係もまた、リアルタイムで進展する事業活動においては大事なのでしょう。
フレイレに思いを馳せる
少し乱暴な言い方ですが、企業には支配的論理があります。支配的論理は、制度、慣行、文化など社内の多岐にわたって浸透しています。そうした浸透が全体として、特定の論理を「支配的」にしていくとも言えます。
支配的論理に「反する」取り組みは、一見、強烈に困難に思えます。その種の取り組みが社内で成功する理由はあまり浮かばないものの、失敗する理由は際限なくイメージできる状態です。
その種の取り組みを見たとき、私はパウロ・フレイレに思いを馳せます。フレイレは貧困の最中にある人々に文字を教えることで、自分たちを取り巻く状況を分析し、どうすれば良いかを検討する、実践を組成しました。
フレイレが何よりすごいと思うのは、そうした実践の中心に据える方法を、一つの「正義」として、自らの言葉で紡ぎ上げた点です(例:『被抑圧者の教育学』)。
もちろん、この「正義」の内容は吟味の対象になるべきでしょう。しかし、「正義」が存在することが支配的論理に抗う人々にとって、どれほど大きな基盤になっただろうかと思うのです。
フィールドの創造
大学院生時代からの研究仲間の伊藤智明さんが、日本ベンチャー学会で学会賞を受賞しました。その知らせを聞き、早速、昨日、伊藤さんと祝杯をあげました。
「企業家の失敗」を「探索」したのが伊藤さんの受賞論文です。ここにおける「探索」は、一般性を頂点とした際の「不足」として捉えるべきではなく、ベンチャー研究において「新たな一歩」となるものです。
詳しくは受賞論文を見ていただきたいのですが、私が何より驚愕したのは、「失敗」をテーマに取り上げたことより、「失敗」に自然に出会えるフィールドにいたことです。
事前に計画して失敗を調べに行ったのではなく、事後的に「失敗」なる現象が浮かび上がってきた。なんという覚悟と忍耐・・・(そしてきっと楽しかったことでしょう)。
恐らく、このことが可能になったのは、伊藤さんが「対話」というフィールドを新しく自身の手で作ったからではないでしょうか。フィールドに入るのではなく、作る。非常に面白い、研究への向き合い方です。
安心感、文法、位置取り
(乱暴な表現ですが)一般企業と比較すると、ビジネスリサーチラボは、「議論」が量・質ともに求められる会社です。ここでいう議論は、会議とイコールではありません。
公式的にも非公式的にも、同期的にも非同期的にも、口頭でも文字でも、他者と議論を行いながら、思考を深めながら、良質なアウトプットを生み出そうとしています。
これだけ議論を交わすのですから、議論自体が(私を含む)当人たちにとって「楽しい」と感じられるものでありたいわけです。では、何があれば、議論が楽しくなるのでしょうか。
勿論、私も完全な答えは持ち合わせていません。しかし、経験上、「安心感」「文法」「位置取り」の3点は、意識しておいて損はないかなと思います。
思考の露出が自分を脅かさない「安心感」があれば、発言しやすい場を作り出せます。やりとりの構成・方法・規則等の「文法」が共有されていれば、議論の速度と効率性を保てます。発言の立ち位置である「位置取り」を自覚していれば、意見を相対化しつつ深められるのです。
形式に注目する
ビジネスリサーチラボでは、企業から依頼を受け、量的調査だけではなく、質的調査を実施することがあり、そのための手法として「インタビュー」を選択することがあります。
インタビューのデータを分析する際、私たちはしばしば「内容」に注意を払いがちです。確かに、「何を話したか」という点は相応の重要性を持つに違いありません。
しかしながら、「形式」もまた大事かもしれません。形式とは「どのように話すか」を意味しています。形式の中には、語彙そのもの、文法、話の展開などに加え、非言語的な要素も含まれます。
昔、ある企業のインタビューに同席していた時のこと。各インタビュー対象者は、異なる「内容」を話しながらも、その「形式」が類似していたのです。気になってインタビュー後に職場を観察させてもらったところ、やはり類似する形式で話す人々の姿が、そこにありました。
当時は、同じ形式で話をすることによって、コミュニケーションコストが最小化できる。形式の共通性が逆に話題の多様化を促している。同じ文化を体現した仲間としての意識を醸成できる。こんな解釈をしたのですが、実際のところどうなのでしょう。
心地よい混乱
芥川賞受賞作『コンビニ人間』を読みました。小説家の想像力と筆力には心から脱帽します。内容は実際に読んだほうが良いと思うので、やや抽象度の高い感想(感覚?体験?)のみ。
誰しも、特定の現象・人物に対して「これは変だ」と思う感覚を持っているのではないでしょうか。「価値観」や「規範」とも呼ばれる、その感覚には「境界」があるのかなと、私は考えています。「ここまで来ると違和感を覚える」という意味での境界です。
私の場合、そうした境界は、小説を読む中で、特定の登場人物に知らず知らず加担するという形で表出することが多い。ところが、『コンビニ人間』が興味深いのは、境界が少しずつズレていく感覚を覚えるのです。
何に・誰に違和感を覚えるのか。その境界が読み進めるうちにズレていき、心地よい混乱が残りました。
そのものと向き合わない
私は音楽が好きです。比較的多くの音楽を聴いてきた方だと思います。夜を徹して音楽を作るほど、のめり込んでいた時期もありました。
ところがここ数年、新しい音楽をフォローするエネルギーを持てずにいます。90年代の音楽をリピートしている自分がいるのです。
それどころか、たまに新しい音楽に出会った時、「これはあの音楽と似ている」とか「この人の影響を受けている」とか即座に考えてしまいます。酷い場合は、悦に入って、そのことを人に伝えてしまいます。
半ば反射的に、音楽そのものと向き合おうとしないわけです。これは一体どんな現象なのかと不思議です。いずれにせよ、この現象を意識的に統制できずにいるため、せめて人に伝えるのだけは控えようと思うのでした。